平成21年9月23日日本100名山を完登し、三日後の9月26日、
中国の玉珠山(6178m)に向かって出発しました。
それが大波乱を引き起こすとは夢にも思いませんでした。
中国登山協会から参加許可の連絡が9月21日ありました。
22日には100名山完登のお祝い登山として姫路から家内と娘、
東京から弟と甥がそれぞれ出発し鳥海山現地で集合することになっていました。
家内に内緒で玉珠山を申し込みましたので、とりあえず9月26日出発の飛行機だけ予約しておき、
詳細は鳥海山から帰って報告することにしました。
9月24日鳥海山から帰って玉珠山のことを話したら、妻と娘に雷が落ちるように激しく怒られました。
妻曰く「こんなに大事なことを何の相談もなく決めるなんて、この妻をなんだと思っているか。
行きたいなら、明日法務局に行って会社をつぶす抹消手続きをしてから行きなさい」
娘曰く「お父さんがこんなに自己中だったとは知らなかった。
もしものことがあったら誰とバージンロードを歩くんや」
次々と攻めてくる妻と娘のヘビーパンチに耐え抜きながら、何とか手にした玉珠山の切符でした。
4000m級と5000m級経験なしでのちょっと無謀な挑戦でした。8人パーティーでしたが、
私を除いてはみんな5千、6千mを経験していました。中には7500mに登った人も一人いました。
当然ながら4300mのベースキャンプに着くや否や激しい高山病の洗礼を受けました。
こんなレベルで玉珠山に来たかと言わんばかりの冷たい視線を浴びましたが、
何とか5200mのキャンプ1まで登っておりました。
私は近眼で眼鏡をかけていましたが、ゴーグルをかけると、よく曇って前が見えなくなります。
本番ではいっそのことメガネをはずして出発しました。
それが危うく命取りになるとは夢にも思いませんでした。
何とか5800mの第2キャンプに着きましたが、高山病でふらふらになりました。
テントに入るや否や倒れてしまいました。
このままでは明日のサミットプッシュは無理だろうと半ばあきらめていましたが、
休むと頭が少し軽くなってきました。風が穏やかで玉珠山の山頂が綺麗に見えていたのが、
夜中から大吹雪になりました。吹雪の中の出発でしたので、何人かがアタックをやめ下山しました。
ちょっとルートを外したら腰まではまってしまい、抜け出すのが大変です。
高山病でほとんど寝てなかったので、出発してすぐ疲れてしまいました。
一歩を踏み出すのがなかなか大変です。高山病で早朝ちょっと食べたものまで全部、
いや胃液まで吐き出す羽目になりました。何度もあきらめようかと思いましたが、
4度の100キロウォーク、アルプス縦走の大変な時を思い出しながら、ひたすら登り続けました。
艱難辛苦の末何とか山頂に立ちました。よく頑張りましたとガイドのデンジンさんが励ましてくれました。
事故は下山の時におきました。メガネをはずしていたので足元がはっきり見えません。
その上疲れ果てていたので足元がフラフラです。
垂直に近い氷壁のところでロープにエイト環をかけようとしゃがんだとたん、
滑って転んで滑落し始めました。無意識的に差し込んだピッケルが刺さり何とか止まりましたが、
体全身が伸びていて右手のピッケルにかろうじてぶら下がっていました。
左手の五本の指をゆっくり雪の中へはめ込みました。
次に左足のアイゼンの前針をゆっくりけりこみました。
三点セットの確認で助かったと思ったら、一気に元気が出ました。
無意識的に差し込んだピッケルで九死に一生を得ました。
1500mは優にある下に滑落したら想像するだけでも背筋がぞっとします。
ベースキャップが目に見えてきた時は、涙がとどめなく溢れ出ました。
日本の山でも何回か死にそうになったことがありましたが、涙したことはありませんでした。
ちなみに、玉珠山の打ち上げパーティーは大変気まずいムードになりました。
8人のパーティーの中で、登頂者は私一人だけでした。
エベレストへの大きな自信につながりました。
玉珠山から日本に戻った私はすぐ目のレーシック手術を受けました。・・・ ・・・