盲聾の障害を背負いながらも大成功をおさめた教育家、社会福祉家、著作家ヘレン・ケラーは言いました。
「やろう」という強い意志は、これまでに行ってきた行動の回数と、その時の決意の強さによって決まる」。
龍井電線工場は国営企業で、太いアルミニューム線、銅線を細くして高圧電線から家庭用電線までを作る、
100人余りの会社でした。
土の扱いには自信がありましたが、鉄は全く素人です。
見習い工の月給は21元/315円で、龍井市幹部の初任給36元/540円よりかなり減りましたが、
昔の田舎の生活に比べれば天国のようなものです。
冬の大学推薦を受けるために、一生懸命に働きました。
3か月が過ぎて仕事に慣れてきたら、見習い工の身分なのに班長に抜擢されました。
班長の手当ては付きますが、給料はそのままです。
私が小さな電線工場で、「井の中の蛙」になって必死にもがいているとき、
中国の政局はめまぐるしく変わっていきました。
1977年7月鄧小平が名誉回復され、指導部に戻りました。
1977年10月中央政府は、1971年から進めてきた大学推薦入学制度を廃止し、試験入学制度を回復しました。
そして1977年12月大学入試が実施されました。
これで夢が叶えると自信満々に試験を受けましたが、高校を出てから5年近く革命に明け暮れてきた
その代価は大きかったです。
老子は言いました。「河や海が数知れぬ渓流のそそぐところとなるのは、身を低きに置くからである」。
私は高校卒業成績平均98点という過去にうぬぼれていました。会社を一日も休みませんでした。
また希望大学の設定が高すぎました。
外部からの迫害やプレッシャーには負けない私でしたが、
身の程知らずの身から出た錆には、怒り心頭に発しました。自分を殺したいくらい憎みました。
半年後の1978年に二度目チャレンジしましたが、二日目の物理が思わしくなかったので、
三日目は受験を放棄しました。
私はハンマーで頭を殴られたように目の前が真っ暗になりました。
中国には「無顔見江東父老/故郷の親に逢う面目がない」という言葉がありますが、
まさに私のことでした。
現役高校生の受験参入で大学のハードルはだんだん高くなっていきました。
理想と現実のキャップを痛いほど思い知らされました。
3度目の1979年7月私は現実的に試験を受けました。
そして9月優秀な成績で吉林大学外国語学部日本語学科に入りました。… …