「兄弟如手足/兄弟手足のごとし」の言葉から、「手足之情」の言葉が生まれました。
古今東西、兄弟の骨肉相食む醜聞が後を絶ちませんが、
わが兄弟の助け合いは、たがいに感謝しつつ、誇りに思っています。
弘基は大学が私より一年先輩でしたので、卒業も一年早くなりました。
弘基は大学のサッカー選手でしたので、夏休みも冬休みも試合と訓練が多く、あまり家に帰れませんでした。
その分弘基は夜の時間を利用してもっと勉学に励みました。
1年生の時に、「日中農業機械辞典」編纂を志し、サッカー練習と大学授業以外の時間は図書館三昧でした。
2年半の艱難辛苦を経て、4年生になった時、弘基はついに「日中農業機械辞典」の草稿を完成し、
大学を驚かせました。中国で新しい大学制度が出来てから、わずか4年しか経っていない時でしたので、
これは弟の大学に限らず、中国のすべての大学においても素晴らしい快挙でした。
弘基は卒業論文を免除され、残りの6か月間を、私がいた吉林大学で日本語を研修することになり、
兄弟が同じ教室で日本語を学ぶことになりました。
世の中に親子兄弟の同じ大学は多いと思いますが、
兄弟が同じ大学の同じ教室で学ぶことはめったにないと思います。
もともと弘基が通っていた吉林農業大学と、私が通っていた吉林大学は同じ長春市にありました。
同じ町で一緒に3年間勉強しましたが、一回も一緒に映画を見たことがありません。
すでに還暦を越えていた母を姉と義兄に任していたので、
一刻たりとも時間を無駄に使うのは許せない罪という意識が強かったからです。
それが毎日同じ寮で寝泊まりして、同じ食堂で3食を食べて、同じ教室で学ぶようになるとは、
夢にも思っていませんでした。
弟は大学では英語を習っていましたから、日本語は完全に独学によるものです。
それが日本語専門の3年生と一緒に勉強しても引けを取らないものですから、
先生もクラスメートもみなびっくりしました。正直私も弘基の日本語の底力にはいささか驚きました。
毎日勉強が終わってからは、消灯時間まで兄弟で夢を語らいました。
子供の時のつらかったことも語らいました。姉たちと義兄たちのことも語らいました。
そして話の終わりはいつも母がテーマになっていました。
ある日弘基が言いました。「兄貴、私たち将来東京でお母さんと一緒に乾杯しよう」。
弘基と向き合って語り合う夢は美しいそのものでしたが、
「人間万事塞翁が馬」のように、私たちの夢はとんでもない方向へ動き出しました。
私より6歳下のクラスメートが十人以上いたように、4歳下の弘基は私より1年先輩でした。
ですから私より1年先に大学を卒業することになりました。
1982年7月の卒業を前に、弟は突然都会の就職機会を拒んで、かたくなに故郷へ帰ると言い出しました。
当時は卒業生が自ら就職活動をするのではなく、国が勤務先を決めてくれました。
学校の推薦が決め手になりますので、弘基は非常に優位な立場でした。
大学を含め大手企業など幾つもの選択肢がありました。
都会に残ったほうが海外へ行くチャンスも多く、将来の発展に有利なのは言うまでもありません。
しかし、弘基は「私はもう決めました。私は故郷へ帰ります」ときっぱり言いました。
弘基のクラスメートも、先生たちもみんな不思議に思いました。
兄貴のために、自分の前途を放棄して、母の面倒を見に田舎へ帰ろうとする弘基の心中を察していたのは、
私だけでした。… …