古人は言いました。「模範の力は無窮無尽である」。
物心がついてくる時期に私は弘蓮姉の影響を強く受けました。
弘蓮姉は1949年生まれで、私より6歳上でした。
弘蓮姉は背が153cmと小柄ですが、田植えをしても、薪切に行っても、
大の男たちが感心するくらいてっとり早く仕事をしていました。
上には親孝行、姉孝行をし、下には妹、弟たちを愛し、かばってくれました。
姉は牛年生まれですが、牛が犂や荷車を引くようになんでも一生懸命に取り掛かりました。
「鈍牛不退」という言葉がありますが、姉は後ろに引くことを知りませんでした。
あの逆境で医科大学に行けたのは奇跡に近いほどでした。
医者になって、教授になって、226万人口の地区の医療局長まで登り詰めました。
日本、アメリカ、韓国など海外の学術シンポジウムに参加し、論文を発表しています。
その後、結婚して夫ができ、子供ができでも私たちに対する愛情は変わりませんでした。
私の眼には小さな姉が大きく映り、私も大きくなったら姉のような人間になると
幾度となく心に決めました。
今私は家に牛を大事にまつっていますが、これは姉に対する崇拝心によるものです。
弘蓮姉は勇男義兄と結婚してから8年間別居生活を余儀なくされましたが、
昔中国ではそんなに珍しいことではありませんでした。
3000kmも離れていましたら年に2回会うくらいで、まさに七夕の織姫と牛彦の暮らしでした。
お互いに行き来するときには、いつも弟と私が勉強していた長春市に寄りますが、
帰りの旅費だけ残し、残りのお金は全部渡してくれました。
その後義兄は故郷に転勤し、姉と一緒に母の面倒を見てくれました。
息子二人が年輩の母を置いて大学に出ているのに、
義理の息子が私たち兄弟にかわって母を大事にしてくれました。
いまだに母のお墓は姉たちと義兄たちが守ってくれています。
勇男義兄が意味深長に言ったことがあります。
「なぜ君たち兄弟の絆がこんなに固いかその理由が分かった。
それは偉大なお母さんがいるからだ」
「曲がった木は材木になれないから切られずに残って里山を守るんだ」。
このご恩は決して忘れることが出来ません。… …