女傑という言葉がありますが、
私より6歳上の姉弘蓮はまさに男勝りの女でした。
自分の運命を嘆くことなく、果敢に立ち向かいました。
1964年8月長姉弘愛の援助で高校には入りましたが、まもなく文化大革命がはじまりました。
父の宗教問題と母の実家の問題が足かせになり、にっちもさっちもいかない日々が続きました。
ほとんどの同じ境遇の高校生は大学の道をあきらめ、結婚したりしましたが、
弘蓮姉はあきらめませんでした。
田舎に戻された姉は、昼は人の倍以上働き、夜は勉強をつづけました。
1972年鄧小平が失脚から名誉回復され、大学受験が7年ぶりに実施されました。
姉は優秀な成績で試験を通りましたが、地元の推薦がなかなか得られなく、
大学行が絶望的になりました。
当時は文化大革命中でしたので、家庭背景が重要視されました。
姉は歩いて30キロ離れた龍井市教育委員会に行き、三日間の涙の訴えの末、
ついに医科大学の切符を手にしました。
聖書に次ぐロングセラーの一つ『「原因」と「結果」の法則』を書いたジェームズ・アレンは言いました。
「運の良い人々とは、強い信念を維持し、数々の犠牲を払い、粘り強い努力を続けてきた人々である」。
親の歴史問題で弘蓮姉は数々の迫害を受けました。
都会の美術記念館の試験と面接をパスし、就職することになりましたが、
地元の反対勢力のトップが美術記念館を訪ねて、
「歴史背景に問題のある子女を使っていいのか」と横槍を入れ、
姉は就職2か月で田舎に呼び戻されました。
その後も大学の推薦チャンスがありましたが、ことごとくはねられました。
1972年鄧小平が失脚から名誉回復しなかったら、姉の大学の夢は夢で終わったかもしれません。
姉は大学に行くとき私に言いました。
「姉さんは女だから、反対勢力に勝てずに故郷を離れるんだ。
お前は男だから、必ず反対勢力に勝って大学に行くんだよ」。
私は涙ぐんでいる姉を見送りながら、ただ「うん」といってうなずきました。
しかし、あの反対勢力に勝つということが、
孤軍奮闘の私にとってどれだけ大変なことかは知る由もありませんでした。… …