今から36年前の1980年6月私は吉林大学外国語学部の同期生
6人と一緒に退学処分を受けました。
別に悪いことをしたわけではありません。
それも入学して一年経ってからの晴天の霹靂でした。
ある日学校の教務部から教務部に来なさいとの連絡を受けました。
行ってみると日本語、英語、ロシア語の6人がすでに来ていました。
何のことかと思いながら椅子に座ると「皆さんは入学時に基準年齢より
オーバーしていたの退学処分になりました。退学の手続きが終わり次第
帰ってもらいます」と教務部長のSさんが宣言しました。
最初は反応がいきませんでしたが、すぐ事の重大さに全身が震えました。
一年間真面目に、一所懸命に勉強に励んできたし、大学の活動だった
皆さんの先頭に立って頑張ってきたつもりなのに、退学とは夢にも
思っていませんでした。
すぐ反撃ののろしを上げました。
「私かは命を取ることはできても、学籍を取ることはできません」と
ドアを足で蹴って退席しました。
私はあまり覚えていませんが、他の6人から後で聞くと30分以上熱弁をふるった
そうです。
その晩私は当時杭州にいる勇男義兄に手紙を書きました。
本当に退学処分になったら、まず奨学金が無くなります。
え奨学金がもらえなくても、乞食をしてでも私は大学を全うしますとの
内容でした。
寮の門限時間になって帰ると守衛さんから長距離電話の連絡が入りました。
飛んで行って電話を受けると、杭州から義兄の電話でした。
お金の心配はしなくてもいいと、授業料と生活費は自分が仕送りすると
言われました。涙があふれんばかりに出ました。
私は守衛さんに特別許可をもらって、夜のキャンパスを一時間ほど
彷徨しました。義兄のこの音は決して忘れまいと何度も自分に
言い聞かせました。(写真は日本の混浴に少し戸惑う姉夫妻)