母は言いました。
「勤者得者也/勤勉な人得る人なり」。
レオナルド・だ・ヴィンチは言いました。
「若いうちに努力せよ」。
文化大革命ですべての学校が授業をしなくなりました。
やっと勉強が面白くなって一生懸命頑張ろうと決めたものの、
私はしょせん10代の子供でしたから、遊びの誘惑には勝てません。
学校がないから毎日里山に行っては雉の卵を取ってきたり、
川に行っては魚を取ってきたりして遊びました。
見かねていた母がある日私を呼んで諭しました。
「今のうちに勉強しておかないと大きくなってだめな人間になるんだ。
お母さんについて日本語を習いなさい」。
日本語が分かるだけで日本のスパイにされたりする時代に、
母は外には内緒で私に日本語を教え始めました。
平仮名とカタカナの五十音図を書き、
また昔の記憶をたどって日本語のテキストを作ってくれました。
今振り返ってみれば、母は本当に日本の女性らしいきれいな日本をしゃべっていました。
第1課から13課までありましたが、今私が覚えているのは
「白組がんばれ!紅組がんばれ!」の第1課「運動会」だけとなりました。
しかし、母のお蔭で私は15年後に吉林大学日本語学科に入ることができました。
日本語の恩恵で今の妻があり、今の娘があり、
今の幸せがあることを思えば、私は母にいくら感謝しても感謝しきれません。(つづく)