今日は母の日です。
故郷から姉たちの母の日イベントや祝宴、姪御、甥子たちの祝福など
でにぎわいました。
姉たちの笑顔から母の面影を描き、偉大なる母を讃えました。
古い言葉に、妻を自慢するのは大馬鹿、子どもを自慢するのは中バカ、
自分を自慢するのは小ばかとありますが、今日は敢えて大馬鹿になります。
先日ゴールデンウイーク休みに孫孝行に下呂温泉に行ってきました。
途中で岐阜城に登りましたが、妻の偉大さに脱帽しました。
昔岐阜地域は井口と呼ばれていましたが、織田信長が岐阜城を攻略し、天下取りの
足場として「岐阜」と名前を付けました。
この名前は3000年ほど前の中国の周文王と2500年ほど前の孔子に由来するというから
度肝を抜かれるくらい驚き感動しました。
周文王は息子の周武王と共に長安近くの岐山から出兵して殷王朝の紂王を滅ぼし、
中原統一に成功しました。
古くから論語で親しまれる孔子については皆さんの方が私より詳しいと思いますが、
織田信長が周文王の岐山の「岐」と孔子の故郷の曲阜の「阜」を合わせて「岐阜」と
命名したそうです。
織田信長といえば、勇猛で短気で荒っぽいイメージですが、中国の古典を結構
勉強していますね。天下取りはただの夢、野望ではなかったですね。
ただし、周文王と織田信長が決定的に違うのは、周文王には姜太公という天下随一の
軍師が付いていましたが、織田信長には姜太公に値する軍師がいなかった、あるいは
あったとしても他人の進言などに聞く耳を持たないから無理ですね。
ここで姜太公に話が変わりますが、長安近くの渭水で毎日釣りをしていました。
針にはエサが付いておらずなおまっすぐな釣り針でした。それでは魚が釣れるはずがないと
人々に笑われましたが、姜太公は「私は天下取りの聖君しか釣らない」と一笑に
付しました。
その話を聞いた周文王がわざわざ姜太公に会いに行き軍師になってくれと拝んだとか。
恥ずかしい話ですが、40年近く前結婚を前提に付き合っていた姜聖花について義理の
叔父さんにあいさつに行きました。義理の父は文化大革命の迫害で49歳にして亡くなり
ましたので、叔父が姜氏一家の長老でした。
初対面の挨拶が終わるや否や、叔父に「正均さん知っているか?!我が家は姜太公の
子孫であることを忘れないようにするが良い!」と威かされました。
家内に姜太公のDNAがどれぐらい流れているかは定かではありませんが、今回の織田信長の
「岐阜」命名の逸話から、周文王⇒姜太公⇒姜聖花の流れを新たに認識しました。
ちなみに、今日の母の日には家内とサイクリングを楽しみました。