お旅山の桔梗が可憐な花を咲かせました。
ゆうすげもあちらこちでらで黄色い花を咲かせていますが、夕方に咲く花なので
朝になると花びらを閉じてしまいます。もう少ししたら道端に近いところでも花が
咲きますので写真が撮れると思います。
博士を辞退した人といえば、文豪夏目漱石が文部省からの博士号を辞退したことで
有名ですが、実はもう一人博士号を辞退した人がいます。
盧士謙さんは1935年京都帝国大学医学部に入学し、1938年実習生として
大連満鉄病院で2か月間研修しました。
盧さんが満鉄大連病院を選んだのは、一つは実家の金州が大連に近いことと、
松本外科主任が京都帝国大学医学部副教授だったことだったそうです。
この二か月間で盧さんは運命的な出会いをしますが、寝室に蚊取り線香を持ってきた
日本人看護婦さんに一目ぼれをしてしまいました。
その看護婦さんが後に盧さんの奥さんになる島田敏子さんでした。
二か月後盧さんは日本に戻り、学業に励みました。そして優秀な成績で博士論文も
通りましたが、政治的な原因で盧さんは学校からの博士号を辞退して国へ帰りました。
これが日本で夏目漱石に次いで博士号を辞退した二番目の事例となりました。
日中国交正常化実現後、1977年京都大学医学部から改めて盧さんに博士学位が
授与されました。
盧さんは長春市立病院の院長を長年務めました。盧さんが大連から長春に移った
おかげで私は大学で島田敏子先生にご縁をいただきました。
大学2年の時島田先生は私たちに日本語の会話を教えてくれました。
美人で明るくて気さくな先生でした。
作文の時、私は「母」というタイトルでクラスで発表しました。
島田先生が涙ぐんで聞いていたのを今も鮮明に覚えています。
島田先生の推薦で私はこの作文を日本国際交流基金主催の日本語作文
コンクールに提出し、最優秀賞は逃したものの、優秀賞に選ばれ、東京からたくさんの
日本語の辞書や書籍を贈ってもらいました。
島田敏子先生が生きていらっしゃれば数え年で今年100歳になります。
島田先生のおかげで今の私の日本語があると思うとただ感謝するのみです。
島田先生、本当にありがとうございました。