21.母の想い
孔子は言いました。
「孝悌は仁を為すの本」。
2年余りの奮闘で、私は使っても使いきれない青春のパワーを感じ、
母孝行のゆるぎない誓いを確認できました。
同時に自分の努力で他人が喜ぶ、その喜びを覚えはじめました。
これは狭い自分と家庭だけの世界からの大きな脱皮でした。
これまでに歴史問題の重荷を背負って抑えられてきた母も、
私の発展の一助になろうと、毛主席の語録と文章を暗誦し始めました。
当時は「老三篇万歳」と言われるくらい毛主席の「人民のために奉仕する」
「ペチュン医師を記念して」「愚公山を移す」三篇が有名でしたが、
母はこの長い三つの文章を見事にそらんじていました。
母はいろんな大会に呼ばれては「老三篇」暗誦を披露したり、
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「老三篇」クイズに答えたりしました。
一文字も間違うことなく、一気に一つの文章をそらんずる母は、
一躍「「老三篇の母」として有名になりました。母58歳の時でした。
姉弘淑も歴史問題のある家庭の子女というレッテルから解放され、
龍井市所在地の機械会社に推薦されていきました。
弟弘基も「さすが正均の弟だ」と褒められるくらい、
高校の勉強、スポーツ、生徒会活動に打ち込んでいました。
わが家の春を謳歌するかのように、
私は市のいろんな勉強会、表彰大会に出るようになりました。私は時を感じました。
当時龍井市では毎年2,3人が北京大学、清華大学に推薦されていきました。
「次は正均 さんの番だね」とまわりがささやき始めました。… …