イギリスの詩人オリバー・ゴールドスミスは言いました。
「最大の名誉は、決して倒れないことではない。倒れるたびに起き上がることである」。
高校から大学への道が閉ざされ、人生初の挫折感を覚えましたが、
青春の真っただ中にいた18歳の青年は、田舎の田んぼと畑で新たな闘志を燃やしました。
小さい時から薪を背負って山を登り降り、田植えや畑仕事で骨を太くしてきた私は、
どんな苦労にも負けない自信がありました。
現に弘蓮姉があんな逆境から医科大学へいった手本がありました。
しかし、政治は人を殺すことも、あるいは表舞台から永遠に抹殺することもできることを、
純粋な若者は知る由もありませんでした。前からの凶弾は怖くなかったですが、後ろから飛んでくる毒矢はよけようがありませんでした。
八道村には12の生産隊があり、私の家は第2生産隊でした。
一つの生産隊は30戸から40戸で150人ほどの人口です。
第2生産隊はそのなかで一番貧しく、凶年の時には1日の工賃が0.20元/3円ほどしかありませんでした。
大雨の日など畑に入れない日を除いて年間350日働いても70元/1,050円です。
なぜこんなところまで落ち込んだかというと、それは人災による因果応報だというしかありません。1970年代、中国の農村では「大寨(だいさい)村(そん)に学ぶ」運動の真っただ中でした。
いわゆる、革命思想をよくすれば穀物の収穫量が上がるということです。
仕事は油を売っても口だけ達者なものはよい報酬が得られ、
反対に仕事がよくできても無口な人は思想評価が落ち、低い報酬になってしまいます。
そうすると、まじめな人たちは労働意欲を失い、精一杯働こうとしません。
私がいた第2生産隊はその典型でした。
いろんな批判会、闘争会は村一でしたが、穀物収穫量はいつもびりでした。
その政治主導のリーダーの3人組が第2生産隊のすべてを牛耳っていました。
我が家は父がキリスト教の長老で、母が資産家の娘ということだけで、
ゆゆしい歴史問題がある家庭のレッテルを貼られました。
このレッテルが父を苦しめ、母を苦しめ、姉を苦しめ、私を苦しめましたが、
私は3年だけはどんなことがあろうとも我慢して耐えることにしました。
地元の推薦がないと大学へはいけないからです。
他人より早く起きることも、他人より遅くまで起きていることも、
他人より倍以上働くことも苦になりませんでした。
他人より毛沢東の語録を暗記することも、他人よりマルクスレーニンの著作を読むことも、
他人より立派な感想文を書くことも苦になりませんでした。
同年代の若者のリーダーとなって「第2生産隊の貧しさを変えよう」
というスローガンを打ち出し、昼となく夜となく働きました。
草が穀物より勢い良かった田畑が逆転し、豊作の秋を迎えました。
一日の工賃も一気に0.8元/12円になり、第2生産隊の社員は大喜びです。
我が家も弘淑姉と二人で880元/13,200円あった借金を200元ほど減らすことが出来ました。
しかし、これがまた3人組の逆鱗に触れることになりました。
泣き面にハチというか,弱りめにたたりめというか、
この大変な時期に我が家を揺るがす大事件が起きました。・・・