中国に「天有不测风云,人有旦夕祸福 / 天に不測の風雲あり、人に旦夕の禍福あり」
ということわざがあります。
1976年6月から9月まで私は龍井市幹部育成コースに参加し、
そのまま龍井市青年団委員会に抜擢されました。
毎年の12月にある大学推薦を狙っていただけに、
私は幹部の道をかたくなに断りました。
しかし、共産党員として組織の命令には無条件従わなければなりません。
1976年は中国にとって政治変動のめまぐるしい一年でありました。
1月8日に周恩来総理が逝去し、7月6日には朱徳中国人民代表大会委員長が逝去しました。
この二人の巨人を追うかのように9月9日毛沢東が逝去しました。
中国全土が悲しみに明け暮れているさなか、北京では激しい権力争いが水面下で始まりました。
鄧小平はこの年の4月にすでに失脚されていましたが、
次のチャンスを虎視眈々としていました。
10月6日、中国の国慶節が終わって間もない時期に、
軍権を掌握していた叶剣英国防大臣が毛沢東の妻江青をはじめとする4人組を緊急逮捕しました。
これをもって10年間続いた文化大革命は幕を下ろすことになりますが、
地方の私たちはこのような中央政府の動きを知る由もありませんでした。
やっと青年団委員会の仕事に慣れかけたと思ったら、
4人組への批判運動が始まりました。
毛沢東の妻がなぜ悪いのか、まったく理解できなかったですが、
国家主席だった劉少奇の失脚に、毛沢東の後継者と決まっていた
林彪の海外逃亡劇などを経験していたので、別に驚くほどのことではありませんでした。
大変だったのは、私のような一介の新人幹部が政治の犠牲品にもてあそばれることでした。
1977年2月、中央政府から新しい指示が伝達されました。
ヘリコプター式(うなぎ登り)に上がってきた新人幹部は全員元の位置に戻るということでした。
私は泣きたいほど悔しかったです。
別にこの出世の幹部職に未練があったわけではありませんでした。
この指令がもう2か月くらい早かったら私は難なく大学に行けたはずでした。
でもくよくよしていられる場合ではありません。
すぐ気持ちを切り替え、年末の大学推薦に目標を定めました。
故郷に戻る用意もできていました。
しかし、私の気持ちをよく知っている龍井市政府は、
私を故郷の八道へ戻らせてくれませんでした。
今度の12月には必ずいい大学に行かせるから龍井の町にとどまってほしいとのことでした。(つづく)