相田みつをは言いました。
「私がこの世に生まれてきたのは、
私でなければできない仕事が、何かこの世にあるからなのだ」。
弘蓮姉が1972年大学に行ってから、
1973年私が高校を卒業するまでの一年間、
弘淑姉は我が家の唯一の労働力でした。
所詮女の細腕で5人を養うということは無理でしたが、
姉は何の愚痴も言わずせっせと働きました。
一番困ったことは冬の薪でした。
虎が出没する雪山に入って薪を切る姉のことを思えば、
今も胸が痛くなります。
薪のことはできるだけ私と弟が頑張りましたが、
姉は姉として弟たちの負担を軽減ししてあげようと私たちに黙って冬山に出かけました。
ちょうど鄧小平が失脚から副総理に復職し、
大学受験制度が回復されるとうわさされる時期でした。
姉は弟たちが勉強に専念していい大学に受かってほしかったのです。
姉は弟たちのための踏み台に、捨て石になる覚悟を決めていました。「
姉さんは本を読みたくてもすぐ頭が痛くなるから、
お前らが姉さんの分まで読んでくれるんだな」とごまかしていました。
義兄万革は当時としては数少ないトラックの運転免許を持っていました。
姉が結婚してからは、義兄がトラックで薪を運んでくるようになり、
我が家の薪難の歴史に終止符が打たれました。
義兄はけんかも村一強かったですが、仕事はなんでもできる頼もしい男でした。
その後義兄はとんとん拍子で出世するようになり、都会のある部門の重要ポストに抜擢されました。
天が姉の美徳に感化し、義兄のような夫をよこしたと私はいつもそう思うのであります。(つづく)