アメリカの詩人で作家のヘンリー・デヴィッド・ソローは言いました。

「私は人生をあるがままに楽しむ」。

弘淑姉は私より4歳上の1951年生まれで、大人しい性格をしていました。

子供の時よく食べ物を譲ってくれたり、かばってくれたりしました。

弘淑姉には申し訳ないが、もし弘淑姉が男だったら、

私はいじめられることなくすむだろうのにと、小さい時によく思ったものです。

弘淑姉は父の言うことをよく守っていたので、鞭の洗礼が一番少なかったと覚えています。

中学二年生の時に文化大革命に巻き込まれ、無政府、無教学の状態で田舎に放り出されました。

16歳の時から野良仕事を強いられましたが、姉は別に苦にすることもなく、

きつい仕事を楽しむかのようにさえみえました。

それが、17歳の時に堤防強化工事に参加し、落ちてきた足場板に頭を打たれました。

気を失った状態で病院に運ばれましたが、大事には至らず三日後に退院して家で静養しました。

その後、姉は本を読みだすとすぐ頭が痛くなり、好きだった本も読めなくなりました。

今の制度だと十分に労災に値しますが、当時は治療費と10日間の日当をもらうのが精いっぱいでした。

父も精米所の2階の屋根から落ちて腰を痛め、仕事がほとんどできなくなりましたが、

父が亡くなって10年後、けがしてからは実に25年後その労災がやっと認められました。

労災が認められても、父の10年を保証するものではなく、

残っていた家の借金を免除してもらうだけでした。

相田みつをは言いました。

「私がこの世に生まれてきたのは、私でなければできない仕事が、何かこの世にあるからなのだ」。

弘蓮姉が1972年大学に行ってから、1973年私が高校を卒業するまでの一年間、

弘淑姉は我が家の唯一の労働力でした。

所詮女の細腕で5人を養うということは無理でしたが、姉は何の愚痴も言わずせっせと働きました。

一番困ったことは冬の薪でした。虎が出没する雪山に入って薪を切る姉のことを思えば、

今も胸が痛くなります。薪のことはできるだけ私と弟が頑張りましたが、

姉は姉として弟たちの負担を軽減ししてあげようと私たちに黙って冬山に出かけました。

ちょうど鄧小平が失脚から副総理に復職し、大学受験制度が回復されるとうわさされる時期でした。

姉は弟たちが勉強に専念していい大学に受かってほしかったのです。

姉は弟たちのための踏み台に、捨て石になる覚悟を決めていました。

「姉さんは本を読みたくてもすぐ頭が痛くなるから、

お前らが姉さんの分まで読んでくれるんだな」とごまかしていました。

義兄万革は当時としては数少ないトラックの運転免許を持っていました。

姉が結婚してからは、義兄がトラックで薪を運んでくるようになり、

我が家の薪難の歴史に終止符が打たれました。義兄はけんかも村一強かったですが、

仕事はなんでもできる頼もしい男でした。

その後義兄はとんとん拍子で出世するようになり、都会のある部門の重要ポストに抜擢されました。

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天が姉の美徳に感化し、義兄のような夫をよこしたと私はいつもそう思うのであります。… …