坂本龍馬は言いました。

「世の人は、われを何とも言わば言え。わが成すことは、われのみぞ知る」。

1959年生まれの弘基は私より4歳下でしたので、影のように私について回りました。

1歳の時には小児麻痺を患いましたが、漢方医をやっていた叔父の鍼灸のお蔭でびっこは免れました。

また、2歳の時には沸騰するお粥の釜に転び落ち、大やけどをしました。

いまだに左の手から頭までやけどの痕が残っていますが、目がやられなかったのが不幸中の幸いでした。

この2回の大難で弟は動きが普通の子より鈍く、すぐ転んだりしました。

私がいたから同年代の子らにいじめられることはなかったですが、運動会ではいつもびりでした。

それが中学校に入るや否や、弟は猛訓練で体を鍛えはじめました。

弘基の夢の第一歩がスタートしました。

弘基は小さい時から手が器用でした。

同じ親元で生まれたのになんでと負け惜しみの強い私でしたが、認めざるを得ませんでした。

家に古いバリカンがあり、弘基が8歳の時にはお互いに散髪してもらうようになりました。

それが、弘基は段差が出ずにきれいに刈り上げてくれるのに、

私がしてあげた弘基の頭は凸凹だらけでした。

私たちが住む家は土壁でしたので、毎年粘土に牛の糞と細かく切った稲わらをまじえて塗り替えます。

それが、弘基は鏡の面のようにきれいに塗りますが、私のはどうしても鏝の痕が目立ちます。

1976年7月、弘基にも文化大革命の余波が襲い掛かりました。

優秀な成績で高校を卒業しましたが、大学の道は閉ざされていましたので、

田舎に戻され野良仕事をする羽目になりました。ちょうど私が市の幹部に抜擢され、

都会に行くことになりましたので、家の主な労働力になりました。

弟は大学にいくまでの2年間立派に家を守りました。

腰が折れそうになる春の田植(もちろん手植えです)、夏の炎天下の田畑の草取り、

秋の取り入れに冬場の段々畑改良と年がら年中大変ですが、弟はよく頑張ってくれました。

そして、1978年9月弘基は見事に吉林農業大学機械学部に受かり、夢の実現へ第一歩を踏み出しました。…