イギリスの政治家ベンジャミン・ディズレーリは言いました。

「どのような教育も逆境には及ばない」。

生まれてはならない運命の胎児がいました。

生まれても産声をあげられない、もう少しで山の墓場に持っていかれる赤ちゃんが、

奇跡的に生死の山を越えました。

飢餓といじめ、そして病に苦しめられながらも、少年は耐え抜いてきました。

文化大革命のいばらの道を、青年は満身創痍ながら屈することなく、

前へ前へと進みました。

姉弘蓮の大学行きは、私に大きな希望と勇気を与えてくれました。

朝早くから夜遅くまで寸暇を惜しんで勉強に励みました。

都会の高校生ライバルたちに勝つことにポイントを絞りました。

私が住んでいた龍井市は二十数万人の人口でした。

私は田舎の高校に通っていましたが、市の統一試験で一、二位を争うようになりました。

うぬぼれの広言をお許しいただけるなら、

私は1973年龍井市高校生卒業生の中で唯一全科目95点以上、

平均98点の成績で最優等生の名誉を勝ち取りました。

しかし、「好事魔多し」というか、「月に叢雲花に風」のように、

高校から大学への夢ははかなく終わってしまいました。

大学受験制度は資本主義への逆戻りと批判を浴びるようになりました。

大学への唯一の道は3年間野良仕事をし、地元の推薦を受けることでした。

1973年6月に実施された大学試験で、遼寧省の張鉄生という受験生は物理化学の成績が6点でした。

しかし、張さんが答案用紙の背面に書いた一通の手紙が、

収まりかけた文化大革命の火種を再燃させることになります。

張さんの手紙の内容は、大学の受験制度に疑問を投げかけるもので、

資本主義の黒い思想を持った勉強虫が大学に入れ、

自分のように赤い思想を持った革命派が入れないのはいかがなものかということでした。

これが、当時遼寧省トップで、毛沢東の甥になる毛遠新の目に留まり、

4人組が鄧小平を再失脚させ、中国を暗黒に導く道具になりました。

「読書無用論」が再台頭し、3年後の大学を目指していた私の夢は、

反対勢力のいじめ、父の自殺、文化大革命終盤の翻弄などで、

6年もかかってしまうことになりました。

しかし、母のために必ず大学へいく、母を必ず楽にしてあげるという

わたしの強い信念は揺るぐことはありませんでした。…